「あなたの“喫茶去”はなんでしょうか?」続き。

前回「喫茶去」という禅語を自分なりにご紹介させて頂きました。そのことに関して。思うことがあったので、付け加えようと思います。

以前の記事です↓

というのも、この言葉を知ったのは、若いお寺の和尚さんのコミュニティで、お寺の今後のあり方、場の生かし方を中心に考えたいというオンラインイベントに参加して、そこで出会ったある和尚さんに自己紹介をする際に「自分はお茶を考えていきたいんです」ということを話したところ。

「みつしげさんの“キッサコ”気になります。ニコ♪」というような返答をいただいたのがきっかけでした。

キッサコ?!・・・気になる。。ネットで調べられるだけ、調べると前回記事のような内容であったのですが。

元となった禅師は訪れた客人に対してのおもてなしに、自分なりの哲学をもっていたのだと考えます。それは“お茶の伺え方を越え、人との関わり方、生に対する哲学”までをも見通しているような感覚を感じとりました。

そうなると、喫茶去という言葉を、ぼくに話された和尚さんの「みつしげさんの“キッサコ”気になります。ニコ😊」という言葉は、ニュアンスとしては、シンプルにはおもてなし方(哲学)を指していたのだろうと考えます。ふと自分の喫茶去は突き詰めればなんだろうということで考えていました。

前回の記事では、何か巧みな配慮だけに力を入れるのではなくて、できる限りの用意をした後に「最高最善」を信じて、なにかに身を委ねてお茶を点てることが、一つの答えだと考えるのですが。

スタイルとしては、一言で言えば「優しくもすらりとしたお茶」という言葉がいまはしっくり来るように感じます。そのスタイルは、何かチラシをデザインするときも、好きな家具デザインをみるときも、そこに共鳴していたなという考えに至ります。

またそれは自分の生き方の理想像でもあります。

「みなさまの“喫茶去”はなんでしょうか?😊」